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魔女(1~2集【完結】) / 五十嵐大介 身体の経験と理知の間で

魔女 第1集 (IKKI COMICS)

五十嵐大介の作品について。以前、リトルフォレストについて記事を作った際にも書いたのだけれど、本当に絵が素晴らしい。その事物が纏う「質感」「空気」「雰囲気」といった感覚的なものが画面に満ちている。

撮った写真をトレース・加工すれば、それは間違いなく現実に即した正確な絵が完成する。しかし、ただそれだけの絵には人の解釈の表現が存在しない。そこに映るのは機械のレンズが捉えた客観的な視覚情報だけだ。

五十嵐大介の絵は、ただ写実的なだけではなく、経験や観察や想像によって得られた解釈が表現されているよう。ただの状況説明のための背景ではない。視覚的なものだけでなく、聴覚、触覚、嗅覚、味覚といった身体感覚の全てでもってとらえた世界を、漫画という平面の世界に落とし込んでいる。だから、媒体はただの白黒の紙面なのにも関わらず、海の風景には潮風でざらついた空気が漂い、料理はものすごくおいしそうなのだ。

そして絵だけでなく、ストーリーも、こうした「経験、感覚、体感、主観、瞬間、原始、アナログ」といった身体的・感覚的な要素と、「知識、言葉、情報、客観、普遍、近代、デジタル」といった理知的・合理的な要素のバランスがテーマとなっているよう。決してどちらが正しいとかいう話ではない。

この「魔女」では、我々の理知では汲み取り切れない世界の存在が、圧倒的な表現力でもって描かれている。2巻で約4つのエピソード。それぞれ異なる時代・異なる場所で、世界と接触する「魔女」達を描いた作品群。

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第1集/第Ⅰ抄「SPINDLE」・第2集/第Ⅲ抄「PETRA GENITALIX」

-世界のありのままを受け入れる「魔女」、切り取る「人間」

「SPINDLE」では、野に生きる少女(魔女)シラルと都市に生きる魔女二コラ、「PETRA GENITALIX」では、村に住む魔女ミラと科学技術や権威としての教会…これら異なるスタンスの登場人物たちの対比によって、「世界のありのままを知る」存在としての「魔女」が描き出されている。これら二つの話で語られる「魔女」には禍々しいイメージはない。むしろ聖女のよう。

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「SPINDLE」で最初に「魔女」として描かれる女性二コラは、魔法の「知識」を完全に会得した存在であった。彼女は、彼女の面子をつぶしたバザールの人々への憎悪を糧に、魔女のメソッドを習得する。そして知識を身に着けた彼女は、復讐のために、バザールへ舞い戻る。

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五十嵐大介.魔女.第1集.第Ⅰ抄「SPINDLE」.p8より.:魔女二コラ。細い線で描かれる女と異形の者。まつ毛も眉毛も瞳も唇も、すべてが美しい…。かざす手に映るは、舞台のイスタンブールにかつて降り立った神々。二コラはそれらを手中に入れたというが…

これに対して描かれるのが、野に生きる遊牧民の少女「シラル」。季節の中で暮らし、世界の声を聴く少女。彼女や、彼女の部族は、世界をどうこうしようとする意図は何もない。ただ、しかるべき時に世界の声を聴き、伝えるだけ。そして、二コラの帰還とほぼ同時に、世界の声に導かれ、このシラルもバザールへ向かう…

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五十嵐大介.魔女.第1集.第Ⅰ抄「SPINDLE」.p19より.:少女シラルと、細やかな模様の織物。アイテムひとつひとつが重厚な世界を作る。この織物の表現を作る過程の描写も神秘的ですごく良い。

 二コラが得たのは、あくまで「知識」でしかなかった。彼女は、誰かが切り出した知識と、自身の憎悪としか向き合ってこなかった。彼女が知識の山から得たものは、あくまで、世界の一部、氷山の一角である。一方でシラルは常に世界に触れている。氷山の一角の下には更にとてつもなく大きな氷があることを、彼女は全身で知っている。

二コラは、世界を操る方法の一部は知ったけれども、その外のことを知ることはできていない。触れられないものがあるということを知らなかった。だから、その「外」から来た存在、大きな世界を知る存在であるシラルを捉えることができなかった。そして物語は、秘密を残したまま終わる。読者がすべてを知ることはできない。

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「PETRA GENITALIX」で描かれる魔女ミラも、このシラル同様、自然に根を下ろし、自らの五感で持って世界を知る存在。

ある日、船外活動中の宇宙飛行士に、小さな隕石が当たってしまう。ミッションを切り上げ、地球に送還される宇宙飛行士。そして開腹手術によって体内に残った隕石を取り出した瞬間、世界のあらゆるものが腐敗するという、人知を超えた事象が発現してしまう…

ミラ及びその弟子のアリシアは山奥に住居を構えており、麓の街の人間や、教会からは「異端」として迫害されている。近代的な技術や権威を信奉する者からすれば、彼女たちの生き方や考えは異色なのだ。しかし、世界が腐敗するという「人知を超えた」現象に直面したとき、人間の積み上げた知識や権威は、それを把握することができない。そして、世界との対話方法を知る魔女ミラは、「魔女はただ自分のやるべきことを知っている」として、世界を救うための行動に出る…

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五十嵐大介.魔女.第2集.第Ⅲ抄「PETRA GENITALIX.p41より.:動物、風景と、それを見つめる魔女ミラ。自然の中で生き、自らの目で物事を見つめる。世界と、濁りのない眼差し。PETRAGENITALIXは、ミラとアリシアの生活の描写も魅力の一つ。

言葉はあくまで言葉であって、物事そのものではない。色々な情報を仕入れ、本来ならば遠く手が届かないはずの世界の存在を知った気になったとしても、それはあくまで誰かが切り取った写真や、誰かが選んだ言葉の知識が頭の中に入っただけに過ぎない。その情報は、あくまで様々な要素の一部を切り取った象徴であって、その事物の全てを表すことはない。

そうした知識や言葉だけでなくて、全身でもって世界を知覚し、それをもとに自らのすべきことをこなす「魔女」たち。何か大きなものを知っているのに、自分の分限を超えず、日々を丁寧に生きる。高潔で聖なる存在のよう。

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第1集/第Ⅱ抄「KUARUPU」、第2集/第Ⅳ抄「うたぬすびと」

-世界を味方につけた魔女の妖しさと強かさ

この2話で描かれる魔女は、妖しく強い。こちらの方が「魔女」という言葉から連想されるイメージに近いかも。

 先に書いた「SPINDLE」「PETRA GENITALIX」で登場した魔女と大きく違うのは、彼女たちが、自分の感情や欲望に動かされてその力を使うところ。「KUARUPU」は夫や子供を含む一族すべてを殺された憎しみを持つ「クマリ」が、「うたぬすびと」では自身の子供の幸福を願う千足が、それぞれの目的のために世界の秘密を利用する。

特に圧巻なのが「KUARUPU」。経済のための森林開発と、その森に住まう呪術師一族の抗いが描かれている。呪術師最後の一人となったクマリは、重火器や暗視スコープといった近代的な装備を携えた傭兵に問いかける。「視る準備はできている?」このページと、次の見開きはなかなか衝撃的。触れてはいけないものに手を出してしまった。なにか大きなあなぐらに引きずりこまれてしまった。畏怖すべき世界が、亜熱帯の湿った空気感とともに描かれている。

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五十嵐大介.魔女.第1集.第Ⅱ抄「KUARUPU.p68,69より.:「視る準備はできている?」「ようこそ精霊の森へ」…そしてこの次のページの見開きの流れはもう衝撃。1ページ&1ページ&見開きという画面構成に、氏の画力と想像力がフルに発揮される。すごい。血肉と汗、異形、生死…濃密でおどろおどろしい世界。

そして、ストーリーもただ「世界を味方につけた尊い魔女が勝利をしました」というオチではない。われわれの世界では森林開発は進み続けている。呪術師たちや精霊、世界を視る人々はどこへ行ったのだろうか…そんな問いかけを残す。

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人が世界をどのように解釈するのか、どう世界を利用するのか、服従するのか、共生するのか。そして世界は人とどう接するのか…氏の作品では、人間は「世界と対峙する存在」として描かれている。そして、世界のありのままを知覚する存在としての「魔女」。彼女らを通して垣間見える深淵の世界が、著者の画力でこれでもかと描かれる。本当かっこいい。

この魔女に限らず、五十嵐作品では、個々別々の社会性とか、細やかな感情の機微だとか、そういった私達の日常に身近なトピックとは違う階層で物語が繰り広げられている。「泣ける」「笑える」「アツい」といったような、「人間ドラマ」的なエンターテイメント性は薄め。本当に潔い。これだけ完成された世界が描かれ、登場人物も増えれば、ちょっとくらい笑わしてやろう泣かしてやろうみたいな色気が出そうなものだけれど…まぁそんなことはない。わかりやすいものでわかりやすくウケることを狙っていない。新連載のディザインズもそう。

ブレずに「世界」とヒトを描き続ける。好き。これからもずっと追い続ける作者。

 

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