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夜、海へ還るバス(単巻【完結】)/ 森下裕美 私を静かな夜へと導くあなたの心と体

夜、海へ還るバス (アクションコミックス)

主人公の夏子は27歳の女性。結婚を控えており幸せの真っただ中のようであるが、彼女には「男性とセックスする夢を見たことがない」という悩みがあった。とても些細なことのようだけれど、なぜか「自分は実はレズビアンなのでないか」という疑いが頭を離れない。このままでは結婚できないと考えた彼女は、自分がレズビアンか否かを確かめるため、婚約者の了解のもと女の「浮気相手」を探し始める。そんなある日、彼女は偶然同じマンションに住む人妻の美波と出逢う。そして、彼女との関係をきっかけに、自身が無意識に葬り去っていた過去の記憶を徐々に取り戻していく…

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昼と夜

この物語でいえば、「結婚」や「充実した仕事」「優しい婚約者」といったものは夏子にとっての「昼」であるように思う。人や、世間との関わり。表向きの装いをして、自身も社会の一部となる、陽のあたる時間。人生においてこのポーションを充実させることはとても大事で、多くの人もそれを目標に日々頑張っている。

では「夜」とはどういう時間だろう。夜眠るとき、たとえ隣に誰かがいたとしても、目を閉じてしまえば向き合うのは自身の意識だけだ。基本的に一人の時間。他者や社会から離れ、装いを解き、表には出さない自分自身となる時。

「美波」は夏子にとっての「夜」の入り口、もしくは「夜」そのものだったのだと思う。美波は、昼の時間でも一人ぼっちの女だ。奔放で、人目を気にせず自由に振舞う。働いてもおらず、社会や他者との関わりから離れてに生きている。目覚めているのにまるで目を閉じ眠っているかのような、孤独な女。夏子は、そんな女と深い関係になることで「夜」の領域に踏み込んでいく。

「昼」に存在する他者との関係性の糸は、確かに窮屈に感じることもあるが、命綱のようにして自身を繋ぎとめることもある。しかし、夏子に必要だったのは、そうした外向きの「昼」ではなく、虚飾を取り払い自分を見つめることのできる「夜」だった。彼女は自分であるために、夜に潜って、自分と向き合い思考する。そして、それが彼女の中に埋もれていた物語を呼び起こしていく。

静かな薄暗い闇の中で、心の奥深くの何かと対峙する時。そうした「夜」の中で物語はひっそりと閉じる。ラスト5ページの幕引きは、本当に、本当に静かで、深い余韻を残す。

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森下裕美.夜、海へ還るバス.第7回.p143より.:夜、二人を監視する者はいない。妖しい…

肉体

私が特に好きなのは、美波が夏子の婚約者に「夏子を癒したの男のお前とは違う、私の心と体だ」 と言う場面。

婚約者は「昼」の象徴で、夏子を助ける事ができるのは自分だという真っ直ぐな自信を持つ。そして、夏子の同性愛についても、なんの悪気もなく「僕が治す」と考えてしまう。良くも悪くも、一見「正しい」らしい常識や倫理観に沿った行動をする。そういったまっすぐさはとても大事。でも、そうした表向きの「正しさ」では、夏子の心の奥深くに触れるには深さが足りない。

母親の不在、自分が女である事に対する恐怖やトラウマ。何かに不足し傷ついている夏子を、母として、女として、もう一度育み直すように抱いたのは、美波だった。

美波は「正しさ」に夏子を当てはめない。不倫だろうと同性だろうと何も躊躇わない。そうして、夏子が欲していたものを、女の己の肉体という圧倒的な媒体でもって、的確に与えたのだ。世の中では「見た目より中身」のようなプラトニックを尊重する在り方が善とされがち。それは決してすべて間違いではない。でも、そこに、心だけでなく肉体があったからこそ、救われることもあるのだと思う。

緩く巻かれた髪、柔らかそうな皮膚、猫のような瞳。奔放な振る舞い、夏子への独占欲、婚約者への敵意。海のような底知れない女の魅力が全開になったシーン。読んでいて「うわ…」と圧倒されてしまう。

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森下裕美.夜、海へ還るバス.第9回.p192より.:婚約者と対峙し、圧倒的な存在感を放つ美波。胸に当てた指としわが女の己を強調している。この女を前にすると、一見、人の良い素晴らしい婚約者もペラッペラな存在のように映る…

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コミカルな演出も多く、キャラの顔立ちも記号的なのだけれど、エピソードの内容は現実的で結構エグい。女、男、母親、家族、恋愛、結婚、不倫、子供、過去、傷、セックス…一巻の中に、色々な要素が詰まっている。

なのに、ラストの幕引きはこの上なく静かで穏やかで、深い水の底にゆっくり沈んでいくよう。読んだ後は、不思議と心が落ち着く。そんな漫画。

 

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