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ちひろ/安田弘之(上下巻【完結】) 何者になるのかは自分が決める、孤高の美しい人

ちひろ 上

 主人公は「ちひろ」という源氏名の風俗嬢。清楚な地味系の佇まいながら、ファッションヘルス「ぷちブル」のNo.1。飄々としていて、自由。天然っぽいかわいさもある。そして、少しの狂気を感じる。そんな彼女と、それを取り巻く人々の日々を描いた作品。

魅力は、奔放なちひろのかっこよさ。壊れているともいえるような複雑な心の内。自由で浮世離れした彼女と、それに対比される俗世の人々の生き方。

 誰かから愛される、社会から認められる…そんな他者からの承認を得るためのレースから、彼女は降りている。自分が認めた自分になる、その有様はとても美しい。一方で、他者との関わりの中で得られる幸せがあることもよく知っている。矛盾したような生き方を続ける彼女はどこへたどり着くのだろう。

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上巻のラストで、ちひろは自発的にぷちブルをやめる。店長の「金と設備それ以外でウチよりいい店はない」という言葉の通り、その労働環境は良好。スタッフ同士の人間関係も円滑で、お客さんも良い人が多い。そんな場所をちひろは自ら手放す。

普通の人は、手に入れた幸せな場所を手放さないで大切に抱え込む。でもちひろは大切なものだからこそ、それを捨ててしまうようだ。

「 風俗嬢である」ことが全て

ちひろはもともと普通のOL、吉澤綾だった。愛想笑いをし、セクハラに耐え、陰口に泣く。世間に馴染むため、社会で居場所をつくるため、親の前ですら無理をしていた。

その後、「風俗嬢ちひろ」となった彼女。「吉澤綾」を手放した彼女は、もはや吉澤綾の居場所をつくるために、自分を殺す必要はなくなった。彼女は本来の自分であることを辞め、社会や世間といったものから離れることで、より自由に自分らしく振る舞える場所を手に入れた。

ちひろは、風俗嬢である。それ以外の何者でもない。出身や、親兄弟、友人、形成された価値観…そういった社会との関わりや背景は、すべて綾の方に置いてきた。ちひろのアイデンティティーは、風俗嬢であるということだけ。

だから、ちひろにとっては「風俗嬢であることを実現すること」こそが、風俗嬢をする目的。金や、プライドや、心の安寧のためにではない。だから、例えば同僚の風俗嬢達が、嫉妬心を燃やして男を取り合ったとしても、ちひろはそこに積極的には参加しない。「人」である他の風俗嬢や客は心で動くけれど、「風俗嬢ちひろ」は心で動かない。どんな客相手でも、決して風俗嬢以外の自分を見せることはない。この上ないプロとして振る舞えるのだ。

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安田弘之.ちひろ.上巻第2話「枯れない花」より.:大谷さん(客)の心は花咲けば枯れることもあるけれど、ちひろはちがう。「風俗嬢である」ほかの何物でもない。いつでも咲いているように見せることができる。

幸せのために幸せと距離を取る 

普通の人が持つような周囲との関係性を捨てた彼女は、それはそれは自由で飄々として魅力的だった。それ故に、彼女は彼女の予想以上に周囲に受け入れられることとなる。そして、ぷちブルは「ただ風俗嬢としてのちひろを実現する」ことを超えて、いつか捨ててきた周囲との関係性や、そこで生じる心の動きを与えるような、あたたかな場所になってしまった。

「風俗嬢ちひろ」に徹して生きているからといって、当然、彼女に心がなくなったわけではない。彼女には、ぷちブルにいる自分の状況を幸せに思う気持ちがある。そして、それを失くした時のことを想像して、喜ぶ。「失くしたことで心痛める自分」に喜んでいるのだ。痛める心があること、手放すのが惜しくてしょうがなるほどの大切なものを手に入れたことが、たまらなく嬉しい。

手に入れたものを手放すことで、自分が大切なものを手に入れられたことを確認して喜ぶ。そして、そのようにして何かを得ることができる自由な「ちひろ」であり続けるために、「ちひろ」をこえて「自分」に何かを与えてくれる場所を、切り離さなければいけなかった。

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安田弘之.ちひろ.上巻第8話「Gotta Get Away」より.:「幸せな時に限って思いつく 困った悪戯」「大切なものを失くす痛みで 私の心は息を吹き返す」。ちひろは泣いている。自分を傷つける矛盾したかのような決断をするちひろの姿と、満開の桜の風景。綺麗で切なく、少し恐ろしい。

何者になるかは自分が決める、そしていつか本物になる

  ちひろはかっこいい。普通の人ができないことをやる。自由で、堂々としている。「ちひろ」という偽の姿で進み続けることで、吉澤綾が成しえなかった「自分らしい生き方」を手に入れることができる。こうなると、もう綾とちひろのどちらが本当の自分なのかなんてわからない。そして彼女は「ちひろ」である方を選んだ。

この「ちひろ」の続編の「ちひろさん」では、彼女は風俗嬢をやめて弁当屋として働いている。「ちひろ」の連載は2001年、「ちひろさん」は2014年。10年以上の時を超えてきたわけだけれど、その姿は相変わらず飄々としていてホッとする。

そして彼女は、風俗嬢であったことも特に隠さず周囲に語っている。「○○出身です」というのと同じノリで、「風俗嬢でした」と告げる。吉澤綾であることは捨てた彼女。でも、「風俗嬢ちひろ」は、彼女にとって肯定されたバックグラウンドとなった。ちひろは、ちひろとしての人生を歩み続けている。

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安田弘之.ちひろ.下巻第13話「千尋の海」より.:「こうやってドーナツの中を泳いでいれば 海を手に入れることができるんだなぁって」「永久に前に進み続けて 結局どこへもたどりつかないで死んでいくなんて ただのアホですよね アホはいいですよ アホは」嘘の海の中でいきいきと泳ぐ色々な種類の魚を、客の男や風俗嬢と重ねる描写。すごい。この13話はこのページの他もずっと黒塗りの背景。水族館の窓のよう。

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軽妙なギャグがベースとなって話が進むなか、ちひろの核心を描いた象徴的なセリフやモチーフが差し込まれる。風景や心象の描写は、綺麗でどこか暗い。笑えるギャグシーンも多いのに、読後は静かな余韻が残る。

自分らしくあること、他者から認められること…そんな命題に対して一つの答えを選んだちひろ。飄々としていつでも自分らしくあれる彼女の在り方は、憧れる気持ちもありつつ簡単にはまねできないと思う。人々がしがみついているモノを必要としない、世の中の色々な「こうあるべき」を拒絶した人。孤高のヒーローのようでもあり、その強さはある意味壊れているようでもある。美しく、恐ろしい女性。

 

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